以前、「感じる」と「考える」というタイトルで投稿した記事があります
感じることはできるが、その後、考えることができない子どもたちに
いかに考えさせるか? というところまで書いて筆を置いたのですが
今回は、その続きというわけです
その記事をご覧になられていない方は、先に、そちらをご覧ください。
世の中の変化のスピードが日に日に加速するに従って、ボクたちは、じっくり立ち止まることが少なくなってきています。目まぐるしく情報が飛び交い、その情報に一喜一憂する。しかし、その次には、新しい情報が否応無しにボクらを襲ってきます。ボクらオトナも、感じることは多々あるものの、余り考えていないのではないでしょうか。子どもたちを変えようと思ったら、まずは、ボクらオトナが変わる必要があるのではないかと思います。
立ち止まることにはとても勇気が必要です。周りの人が前進する中、ひとり、その流れに逆らって立ち止まるわけですから、置いてきぼりを食らったかのように感じるからです。しかしながら、そうやっていったん立ち止まってみないと、じっくり考えることはできません。今すぐ結果が出ないかもしれない。いつまでも立ち止まったままになってしまうかもしれない。立ち止まると取り返しのつかないことになるかもしれない。そうやって焦る気持ちを落ち着かせ、静かに目を閉じる。ボクら現代人には、そういう静かな時間が必要だと思います。
子どもに考えさせるには、オトナがまず考えないといけない。これが1つ目のボクの結論です。
そもそも、「考える」とはどういう精神活動を指すのでしょうか?
例えば、お金がなくて困っている人がいて、その人が「お金がない、お金がない。う〜ん、困った。どうにかしなければいけない。どうしたらいいだろう?」と、来る日も来る日も考えているとします。さて、この人は、本当に「考えている」ことになるのでしょうか?
昨日の作文指導(門司学園中学校の適性検査対策)の授業で、ボクは子どもたちに次のような話をしました。
「お金はいくらでもあげるから、今から好きなところに行っていいよと言われたらどこに行く?」
子どもたちは、それぞれ、行ってみたい場所をいくつも挙げました。東京だったり、ハワイだったり、中には買い物に行きたいと答えた子もいました。ボクは続けて次のように問いかけました。
「じゃあ、実際に今から出発したとしたら、果たしてみんなはそこにたどり着くことができる?」
そう。目的地に到着するには、何に乗ればいいのか? どこから乗ればいいのか? 何時の便に乗ればいいのか? どんな路線を使い、どこで乗り換えたらいいのか? 様々なことを調べないといけないはずなのです。すなわち、「きちんと考え結論を出すためには、その前に情報を得る必要がある」はずです。子どもたちは、このボクの考えに頷き理解してくれました。
列車の出発時刻を調べるには時刻表を使えばいい。これを知識と言います。この知識を持ち得ていない人は、調べようにもどうすればいいか解りません。時刻表は書店に行けば手に入るし、駅にも置いてあります。これも知識です。時刻表まで思いついても、それがどこに行けば手に入るか知らなければやはり目的は成し遂げられません。書店に行って買うよりも、最近では、インターネットを使って調べることができますし、携帯電話からも簡単に調べられます。これは知恵です。情報を得るには、このように、知識と知恵が必要となるのです。
さて、オトナの役割が見えてきたのではないでしょうか? 子どもに考えさせるためには、オトナは子どもに、タイミングよく、ふさわしい知識と知恵を授ける必要があるのです。その繰り返しが理論となりその子に蓄積され、考えることができるようになるわけで、それをせずに「考えなさい」と突き放しても、子どもは全く前に進めないわけです。そして、タイミングを見計らったり、ふさわしい知識や知恵を選りすぐったりするには、オトナがそうした「考える」経験をいくつもいくつも蓄積しておくしかないでしょう。
ボクは、この経験の蓄積を「引き出し」と呼んでいます。子どもに必要なものをタイミングよく取り出せる「引き出し」。オトナの価値は、この「引き出しをいくつ持っているか」に尽きると思います。


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